イエスの見方

聖書とは、神様からのメッセージです。聖書の中にはたくさんの神様の愛があふれています。聖書を学ぶということは、「愛」を学ぶということなのです。
ここでは、聖書の中から毎月一小節を選び、わかりやすく牧師が説きます。

 

 

イエスの見方

「この人が罪を犯したのでもなく、

両親でもありません。

神のわざがこの人に現れるためです。」

 

ヨハネの福音書9章3節

11月に入り、山々は秋の色で覆われています。

今年も残すところひと月半になりました。

一年の過ぎゆく速さは年々増し加わっていくようにさえ思います。

お変わりまりませんか。

 

嫌なニュースばかりが流れている昨今、政治や経済にも明るいニュースは

あまりありません。

何か日本の国全体に元気がありませんね。

でもそれは私たちのものの考え方や見方で変わってくるものではないでしょうか。

 

ある時、イエスさまは弟子たちとエルサレム近くの道を歩いておられました。

そこで、イエスさまは道端で物乞いしていた盲人をご覧になられました。

弟子たちはイエス様に質問しました。

 

「先生、彼が盲人に生まれたついたのは、誰が罪を犯したからですか。

この人ですか。両親ですか。」

 

その問いに対してイエスさまは

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

神のわざがこの人に現れるためです。」

と答えられたのです。

なんと希望に満ちた前向きな言葉でしょうか。

ここにイエスさまの見方があります。

 

弟子たちは当時の人が考えるようにこの人が盲人に生まれたのは

誰かの罪が原因していると考えました。

それは私たちの考えの中にもあります。

障害を持って生れた人がいたら誰かの罪のせいではないか。

果てには因縁やたたりではないか。

そんな考えが今でもあります。

その考え方は、全ての事に繋がっています。

何か失敗すると誰かのせいにしようとします。

自分が悪いのではないか、あの人が悪いのではないか。

すべての考え方が後ろ向きなのです。

 

イエスさまは弟子たちと同じ盲人をみて、

「神のわざがこの人の中に現れるためです。」

と仰いました。

ここにイエスさまの見方があります。

その人の中の可能性を見ておられ、見方が前向きなのです。

 

三重県の熊野市という町に、生まれて間もなく脳性小児麻痺になられた

坂内勝さんと言う方がおられます。

話すことも立つこともできない。

身体の自由といえば、耳とわずかに見える目、かろうじて動く両手だけです。

お母さんの忍耐強い努力の結果、字が読めるようになり、

不自由な指で文字盤の文字を指すという方法で

自分の意志を伝えておられるのです。

 

坂内さんは自分の将来を考える時、いつも不安と言葉で言い表せない

恐怖に襲われたそうです。

そんなある日、彼はラジオから流れてくる声に耳を傾けました。

それは初めて聞く聖書の話でした。

 

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

彼はキリストを信じる信仰に導かれました。

この時から彼は心に重くのしかかっていた不安と恐怖が消えていきました。

そして今は驚くほど明るく快活な人に変わられておられるというのです。

 

「今一番の願いは何ですか。」

 

と問いに坂内さんは

 

「父と母が救われることです」

 

と仰っているそうです。

 

神のわざが現れた一つの例ではないでしょうか。

 

私たちは同じ時代に生き、同じものを見ています。

イエスさまが見られたような前向きな可能性を見る者でありたいものです。

そうすればもっともっと自分自身が楽しくなり、

周りにも希望をもたらすことができるのではないでしょうか。

 

あなたの上に神の恵みがありますように。